皆さん、こんにちは!「社会人先生」です。今日も楽しく歴史を学んでいきましょう。
19世紀の世界は、強い国が弱い国を支配する「弱肉強食」の時代でした。明治時代、日本にとって最大の悩みは、幕末に結ばされた不平等条約(ふびょうどうじょうやく)でした。
「外国人に裁判ができない」「輸入の税金が決められない」という、まるで二等国扱いされていた日本。そんな不名誉な状態を、当時のリーダーたちはどうやって跳ね返したのでしょうか?
今回は、日本のプライドをかけた条約改正のドラマを解説します!
1. 2つの「不平等」と悲劇の事件
不平等条約のポイントは、大きく分けて2つあります。
- 領事裁判権(りょうじさいばんけん): 日本で罪を犯した外国人を、日本の法律で裁くことができない(外国の領事が裁判をする)権利です。
- 関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない: 日本が輸入品にかける税金を、自分の国で自由に決められないことです。

この不平等の恐ろしさを日本人が思い知らされたのが、1886年のノルマントン号事件でした。イギリス船が沈没した際、日本人乗客だけが見捨てられて全員亡くなったのに、イギリス人船長は軽い罰で済んでしまったのです。
「こんな不平等は絶対に許せない!」という国民の怒りが、改正への大きな力となりました。
2. 改正への長い道のり:岩倉から陸奥へ
条約を直すのは、口で言うほど簡単ではありませんでした。
- 岩倉具視(いわくらともみ): 明治の初めに大規模な使節団として欧米へ渡りましたが、「日本はまだ法律が遅れている」と相手にされず、失敗に終わりました。
- 青木周蔵(あおきしゅうぞう): 交渉を進めましたが、国内でのテロ事件(大津事件)などが影響し、あともう一歩で中断してしまいました。
井上馨(いのうえかおる):条約改正のために努力をします

その努力は外国人と仲良くダンスを踊る。鹿鳴館というお屋敷で舞踏会を開きました。

日本人が西洋風の衣装を着てダンスを踊る。そうすれば、日本は一流の国だと思われる。条約改正のためにダンスを踊ります。欧米からは「西洋の猿まねをしている」と馬鹿にされます。
井上馨の作戦は失敗に終わります。
そしてついに、1894年。外務大臣の陸奥宗光(むつむねみつ)が、日清戦争の直前に領事裁判権の撤廃(てっぱい)に成功しました。これは、イギリスとの間で結ばれた日英通商航海条約によるものでした。

3. 最後の一手!小村寿太郎の功績
残るは「関税自主権の回復」です。
日清・日露戦争に勝利し、日本の実力が世界に認められ始めた1911年。外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)がついに、アメリカとの交渉を皮切りに関税自主権の回復を成し遂げました。

幕末から約半世紀。日本はついに欧米列強と肩を並べる「一等国」の仲間入りを果たしたのです。
4. 基礎用語の確認問題(5問)
【問1】 日本で罪を犯した外国人をその国の領事が裁く、日本に不利な権利を何といいますか。
【問2】 輸入品にかける税金を、日本が自国で自由に決められない状態を何といいますか。
【問3】 イギリス船の沈没で日本人乗客が見殺しにされ、国民が条約改正を強く求めた事件は何ですか。
【問4】 1894年、日清戦争の直前に領事裁判権の廃止に成功した外務大臣は誰ですか。
【問5】 1911年、日露戦争後に完全な関税自主権の回復に成功した外務大臣は誰ですか。
5. 基礎用語の確認問題の答え
【問1】 領事裁判権
【問2】 関税自主権がない
【問3】 ノルマントン号事件
【問4】 陸奥宗光
【問5】 小村寿太郎
6. 高校入試に出る記述問題
【問題】 19世紀後半、欧米列強はなぜ当初、日本の条約改正交渉に応じようとしなかったのですか。「法律」という言葉を使って説明しなさい。
7. 答え
当時の日本の法律や裁判の仕組みが、欧米諸国に比べてまだ十分に整っていないと判断されたため。8. まとめ







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