1853年
ペリーが浦賀に来航
日本は開国をする結果となった
ペリーはどうして日本を開港させたのか
開国までの道筋を
わかりやすく、簡単に解説していきます。
キーワード
・ペリー
・日米和親条約
・下関、函館
江戸幕府の開国
① アメリカと捕鯨
アメリカは、太平洋でクジラを捕獲する捕鯨を行っていました。
クジラからは燃料がとれました。
燃料ほしさに、太平洋の鯨をアメリカが乱獲しています。
しかし、捕鯨船には弱点がありました。
それは燃料不足になりやすいことです。
そこで、アメリカは太平洋で捕鯨をするときに、燃料を補給する場所がが欲しいと考えます。
そこで目を付けたのが日本です。
日本を燃料不足になったときの補給基地にしようと考えます。
アメリカはペリーを日本に派遣します。
② ペリーの来航
アメリカの東海岸ノーフォークを出発し、大西洋を横断、アフリカ大陸をまわってペリーは日本にやってきます。
ペリーは日本が従わない場合は、
「清のようにするべきだ」
と考えていました。
イギリスと清が戦ったアヘン戦争のことです。
日本画要求を断れば、戦争を辞さなかまえでした。
1853年にペリーは浦賀に来航しました。
ペリーがきたときに狂歌が読まれています
太平の 眠気をさます 上喜撰(じょうきせん)
たった四杯(しはい)で 夜もねられず
「上喜撰」は高級なお茶です。「蒸気船(じょうきせん)」と掛け詞になっています。
「四杯(しはい)」は「軍艦四隻」とかけられています。
当時の江戸幕府や江戸の町のパニックが分かります。
ペリーが来ていきなり開国をしたわけではありません。
ペリーはアメリカ大統領の国書をわたし、1年後に再び来ることを伝え、帰って行きました。
1年後、再びペリーがやってきました。
③ アメリカと江戸幕府の交渉
1854年
ペリーは1年後に本当にやってきました。
ペリーが率いてきた軍艦が海にズラッと並んでいます。
すべての軍艦が、船の腹を見せて停泊しています。
アメリカ軍艦が
いつでも日本に向かって撃てるようにしている
状況です。
アメリカの脅しの中で、アメリカと江戸幕府の交渉は進んでいきます。
アメリカ代表がペリー
江戸幕府代表が林大学頭
アメリカの要求
1 アメリカとの貿易開始
2 漂着したアメリカ人の救助
3 アメリカ船への石炭、食料の供給
日本の対応
鎖国の日本では認められない
林大学頭は
ペリーが強気で出てこられない
と考えていました。
どうしてペリーは強気にでてこられなかったのだろうか?
当時「国際法」がすでにありました。
国際法の一部
1 自分の国のことは自分で決めることができる
2 国は大小に関係なく平等である
3 道理に反する(武力に訴える)ことをする国は「文明国」でない
国際法があったため、むやみに攻撃することはできなかったのです。
鎖国下の日本
なんと、日本は国際法を知っていたのです。
蘭学で「万国公法」という日本語にすでに訳していました。林大学頭の頭の中に国際法は入っています。
アメリカが簡単に武力を使うことができないと分かっていました。
だから、林大学頭は強気に交渉をすることができたのです。
交渉の結果、鎖国は守ることはできませんでしたが、アメリカは要求を小さくせざるを得なかったです。
結ばれた条約は、日米和親条約です。
1 下田と函館の2港を開く
2 漂着したアメリカ人は救助する
3 下田、函館では石炭や水、食料を提供する
アメリカの要求の貿易は認めませんでした。
また、アメリカは5港を開港するように要求していました。
それを下田、函館の2港だけにしたのは、成果です。
まとめ
用語確認 一問一答
① 1853年に浦賀に来航したアメリカ艦隊の司令長官の名前
② 1854年にアメリカと結んだ条約
③ 日米和親条約で開いた港
用語確認 一問一答 ~答え~
① ペリー
② 日米和親条約
③ 下田、函館