「ペリーの来航」「開国」とは わかりやすく簡単に解説

歴史
Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854
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1853年

 ペリー浦賀に来航

 日本は開国をする結果となった

 ペリーはどうして日本を開港させたのか

 開国までの道筋を

 わかりやすく、簡単に解説していきます。

キーワード

・ペリー

・日米和親条約

・下関、函館

江戸幕府の開国

① アメリカと捕鯨

(19世紀末頃のニューイングランドの捕鯨船 出典:Wikipedia

 アメリカは、太平洋でクジラを捕獲する捕鯨を行っていました。

 クジラからは燃料がとれました。

 燃料ほしさに、太平洋の鯨をアメリカが乱獲しています。

 しかし、捕鯨船には弱点がありました。

 それは燃料不足になりやすいことです。

 そこで、アメリカは太平洋で捕鯨をするときに、燃料を補給する場所がが欲しいと考えます。

 そこで目を付けたのが日本です。

 日本を燃料不足になったときの補給基地にしようと考えます。

 アメリカはペリーを日本に派遣します。

② ペリーの来航

 アメリカの東海岸ノーフォークを出発し、大西洋を横断、アフリカ大陸をまわってペリーは日本にやってきます。

 ペリーは日本が従わない場合は、

「清のようにするべきだ」

 と考えていました。

 イギリスと清が戦ったアヘン戦争のことです。

 日本画要求を断れば、戦争を辞さなかまえでした。

 1853年にペリー浦賀に来航しました。

 ペリーがきたときに狂歌が読まれています

太平の 眠気をさます 上喜撰(じょうきせん)

たった四杯(しはい)で 夜もねられず

 「上喜撰」は高級なお茶です。「蒸気船(じょうきせん)」と掛け詞になっています。

 「四杯(しはい)」は「軍艦四隻」とかけられています。

 当時の江戸幕府や江戸の町のパニックが分かります。

 ペリーが来ていきなり開国をしたわけではありません。

 ペリーはアメリカ大統領の国書をわたし、1年後に再び来ることを伝え、帰って行きました。

 1年後、再びペリーがやってきました。

③ アメリカと江戸幕府の交渉

Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854
(嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 随行筆記した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ 出典:Wikipedia

 1854年

 ペリーは1年後に本当にやってきました。

 ペリーが率いてきた軍艦が海にズラッと並んでいます。

 すべての軍艦が、船の腹を見せて停泊しています。

 アメリカ軍艦が

 いつでも日本に向かって撃てるようにしている

 状況です。

 アメリカの脅しの中で、アメリカと江戸幕府の交渉は進んでいきます。

 アメリカ代表がペリー

 江戸幕府代表が林大学頭

アメリカの要求
 1 アメリカとの貿易開始
 2 漂着したアメリカ人の救助
 3 アメリカ船への石炭、食料の供給

日本の対応
 鎖国の日本では認められない

 林大学頭は

 ペリーが強気で出てこられない

 と考えていました。

太子君
太子君

どうしてペリーは強気にでてこられなかったのだろうか?

 当時「国際法」がすでにありました。

国際法の一部
 1 自分の国のことは自分で決めることができる
 2 国は大小に関係なく平等である
 3 道理に反する(武力に訴える)ことをする国は「文明国」でない

 国際法があったため、むやみに攻撃することはできなかったのです。

 鎖国下の日本

 なんと、日本は国際法を知っていたのです。

 蘭学で「万国公法」という日本語にすでに訳していました。林大学頭の頭の中に国際法は入っています。

 アメリカが簡単に武力を使うことができないと分かっていました。

 だから、林大学頭は強気に交渉をすることができたのです。

 交渉の結果、鎖国は守ることはできませんでしたが、アメリカは要求を小さくせざるを得なかったです。

 結ばれた条約は、日米和親条約です。

日米和親条約

 1 下田と函館の2港を開く 
 2 漂着したアメリカ人は救助する
 3 下田、函館では石炭や水、食料を提供する

 アメリカの要求の貿易は認めませんでした。

 また、アメリカは5港を開港するように要求していました。

 それを下田、函館の2港だけにしたのは、成果です。

まとめ

  1. アメリカは鯨からとれる燃料をとるため、太平洋で捕鯨をしていたため、薪、食料、燃料の補給基地として日本に目をつけた
  2. 1853年ペリー浦賀に来航し、開国を要求した
  3. アメリカと江戸幕府の交渉は、江戸幕府の林大学頭の交渉でアメリカに譲歩を引き出すことができた
  4. 1854年に日米和親条約を結び、日本の鎖国は終わり開国をした
  5. 日米和親条約下田、函館の2港を開いた

用語確認 一問一答

① 1853年に浦賀に来航したアメリカ艦隊の司令長官の名前

② 1854年にアメリカと結んだ条約

③ 日米和親条約で開いた港

用語確認 一問一答 ~答え~

① ペリー
② 日米和親条約
③ 下田、函館

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