1904年 日露戦争が開戦
日露戦争のきっかけ義和団事件
日露戦争の日本の勝因
日露戦争の講和条約のポーツマス条約
日露戦争の国内・国外(海外)の影響について
わかりやすく、解説していきます。
キーワード
・義和団事件
・日露戦争
・ポーツマス条約
・日比谷焼き打ち事件
日露戦争
① 日本とロシアの国力の差
日本とロシアの国力の差です。
戦艦の数は
日本は戦艦6隻 ロシアは戦艦12隻
国家予算
日本は2億円 ロシアは20億円
総兵力
日本は20万人 ロシアは200万人
圧倒的にロシアの方が有利でした。
② 義和団事件
![](https://education-geo-history-cit.com/wp-content/uploads/2024/03/640px-Troops_of_the_Eight_nations_alliance_1900.jpg)
清(中国)では外国勢力を追い出そうと反乱が起きました。
義和団事件です。
「扶清滅洋(清を助けて外国勢力を追い出す)」を唱えた清国内の外国勢力への反乱
義和団事件に応じて、清政府は「外国勢力を追い出せればラッキーだ」と考え、清に進出していた国に宣戦布告をします。
ロシアは満州に兵を進め、義和団事件後もとどまり続けました。
宣戦布告された国々は清に軍隊を派遣し、鎮圧をします。
日本は韓国を影響下においたいと考えており、ロシアがさらに南下してくることが心配でした。
③ 日英同盟
![](https://education-geo-history-cit.com/wp-content/uploads/2024/03/8e54fa756021dfc8195b000692827756.jpg)
日露戦争の風刺画です。
真ん中で剣を持っているのは「日本」
左でタバコを吸っているのが「ロシア」
日本には味方がいました。
一番右が「アメリカ」
日本の背中を押しているのが「イギリス」
イギリスは「背中を押している」というより「お前が行け!」という勢いです。
日本とロシアとの関係です。
日本はロシアが満州からさらに南下することを警戒していました。
日本と同じようにロシアに対してロシアの動きを警戒していた国があります。
「イギリス」です。
イギリスは清(中国)でロシアが勢力拡大することに警戒していました。
日本とイギリス、どちらもロシアを警戒しています。
利害が一致をした日本とイギリスは同盟を結びます。
1902年の「日英同盟」です。
日本とイギリスとの同盟。日本は日英同盟でロシアに対抗した。
④ 日露戦争開戦
日英同盟を結んだ日本ですが、ロシアに対抗できる力は十分ではありません。
できれば、戦争は回避したい。
日本はロシアとの交渉に臨みます。
日本は「ロシアの満州を支配を認める」かわりに「朝鮮半島に南下することをやめる」ようにロシアに呼びかけます。
しかし、ロシアはシベリア鉄道の建設。朝鮮半島に軍事基地を作る、など交渉に応じることはありません。
時が経てば、朝鮮半島の軍事基地はより強固になる。
シベリア鉄道が完全開通をすると日本に勝ち目はない。
日本はロシアとの戦争に踏み切ります。
1904年 日露戦争の開始です。
⑤ 日露戦争の流れ
![](https://education-geo-history-cit.com/wp-content/uploads/2024/03/631px-Mikasa-Bridge-Painting-by-Tojo-Shotaro.jpg)
旅順包囲線
日本の陸軍は旅順の攻略に挑みます。
旅順は清(中国)の一部です。
しかし、三国干渉後にロシアの勢力下になっています。
旅順は要塞化されており、攻略は難しい状況でした。
途中にロシアはバルト海から世界最強とうたわれるバルチック艦隊が出港していました。
旅順港のロシア艦隊と合流をされること
日本海でロシアの旅順艦隊とバルチック艦隊で挟み撃ちにされることを日本の負けを意味します。
陸軍は203高地を目指します。
203高地からは旅順港が見えます。
山の上から旅順港のロシア艦隊を撃退する作戦でした。
203高地では多くの死者が出ました。多くの犠牲の上に203高地を攻略しました。
旅順港のロシア艦隊の撃退に成功します。
奉天会戦
奉天でも日本は多数の死者を出しながら前に進み続けます。
結果、日本は勝利を収めます。
しかし、北に逃げるロシアを追いかけることができませんでした。
日本の陸軍は多数の死者を出していたこと、ロシアの総兵力の方が多いことなどから追撃できませんでした。
日本海海戦
バルト海から来たバルチック艦隊。
日本海に着く頃には、かなり体力を消耗していました。
理由は「日英同盟」です。
イギリスの攻撃を受けないように神経をすり減らしたこと
スエズ運河が使用できずに、遠回りで日本海に来たこと
などがあげられます。
日本の連合艦隊の艦長「東郷平八郎」は作戦を立案しました。
![](https://education-geo-history-cit.com/wp-content/uploads/2024/03/Togo_Heihachiro1907.jpg)
日本の連合艦隊は一糸乱れぬ動きを見せ、作戦通りの動きを見せます。
結果は日本の圧勝
ロシアは23隻が沈没。その中に戦艦が6隻含まれます。また、6隻を日本が拿捕しました。
日本の損傷は3隻だけで、戦艦の損傷はありませんでした。
歴史的な大勝利を収めました。
⑥ ポーツマス条約
日露戦争の講和条約が「ポーツマス条約」です。
内容です。
(1)韓国における日本の優越権を認める
(2)日本に旅順や大連の権利や長州以南の鉄道の権利をゆずる
(3)北緯50度以南の樺太を日本にゆずる
賠償金を得ることはできませんでした。
日本は勝利しましたが、多くの犠牲を払ったこと。
戦争継続が戦力的・戦費的に難しかったこと。
苦い勝利の日露戦争です。
⑦ 日露戦争の国内の影響
![](https://education-geo-history-cit.com/wp-content/uploads/2024/03/Hibiya_Incendiary_Incident2.jpg)
国内では、戦争による増税に多くの国民の生活は苦しくなりました。
多くの犠牲を払った結果、勝利することはできました。
しかし、賠償金を獲得することができませんでした。
これは国民の大きな不満となりました。
東京の日比谷ではポーツマス条約に反対する「日比谷焼き打ち事件」が起こりました。
日本国内での国民の暴動です。
⑧ 日露戦争の海外(国外)の影響
日露戦争に勝利した日本。
列強(一等国)の仲間入りを果たします。
欧米の国々が日本に対して一目置くようになります。
国際的な地位の向上です。
勝利の後に、不平等条約の改正に成功します。
「関税自主権の回復」に成功しました。
また、アジアやアフリカの国々に希望を与えました。
中華民国を建国した孫文
アフリカ独立の父のデボイス
インド初代首相ネルー
日本の勝利に心を躍らせました。
まとめ
![](https://education-geo-history-cit.com/wp-content/uploads/2024/03/c7887a92414f854a9067849a51b9bb02-24-1024x576.jpg)
用語確認 一問一答
① 清国内で「扶清滅洋」をかかげ、外国勢力の排除を目指した反乱
② 1902年に結ばれた日本とイギリスとの同盟
③ 1904年に開戦した日本とロシアとの戦争
④ 日露戦争の講和条約
⑤ 賠償金が得られなかったことに対する日本国内の暴動
用語確認 一問一答 ~答え~
① 義和団事件
② 日英同盟
③ 日露戦争
④ ポーツマス条約
⑤ 日比谷焼き打ち事件