「条約の改正」を分かりやすく解説 明治時代

歴史
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 日米修好通商条約から続く不平等条約

 不平等条約の改正、つまり

 領事裁判権の撤廃

 関税自主権の回復

 明治政府の悲願だった。

 条約の改正までの流れ、関税自主権の回復、領事裁判権の撤廃について

 わかりやすく、解説していきます。

キーワード

・欧化政策

・井上馨

・ノルマントン号事件

・領事裁判権の撤廃

・陸奥宗光

・関税自主権の回復

条約の改正

① 井上馨~欧化政策~

 条約改正に挑んだ外務大臣(明治時代は外務卿)

 1人目が井上馨

(井上馨 出典:Wikipedia

 井上馨は条約改正のために努力をします

 その努力は

 外国人と仲良くダンスを踊る。

 鹿鳴館というお屋敷で舞踏会を開きました。

(鹿鳴館での舞踏会の様子 出典:Wikipedia

 日本人が西洋風の衣装を着てダンスを踊る。

 そうすれば、日本は一流の国だと思われる。

 条約改正のためにダンスを踊ります。

 欧米からは「西洋の猿まねをしている」と馬鹿にされます。

 井上馨の作戦は失敗に終わります。

② 陸奥宗光~領事裁判権の撤廃~

 2人目が陸奥宗光

(陸奥宗光 出典:Wikipedia

 陸奥宗光が外務大臣の時に大きな出来事があります。

大日本帝国憲法

 1889年 「大日本帝国憲法」の発布です

日本に憲法ができることにより交渉がしやすくなる

 大日本帝国憲法に引き続き、事件が起こります。

ノルマントン号事件

 ノルマントン号事件です。

(ノルマントン号事件 出典:Wikipedia

 和歌山県沖を航行していたノルマントン号。座礁してしまいました。

 船長のイギリス人、乗組員のイギリス人とドイツ人の26名全員救命ボートで脱出。

 乗客の日本人25名中は25人死亡。

 船長のセリフが残っています。

助けてほしければ金を出せ

 日本人として許せない出来事です。

 イギリス人船長は、日本人25人を見殺しにした罪で裁判にかけられます。

 しかし、日本人は船長を裁くことができません。

 イギリスに領事裁判権を認めていたからです。

領事裁判権

 外国人が事件を起こした婆愛に、自分の国の裁判所ではなく、外国の領事(外国人の国の人)が裁判を行う権利

 イギリス人船長は、イギリスの裁判によって裁かれます。

 判決は、有罪

 日本人はホッとします。

 刑罰は、

 禁固3ヶ月

 日本人25人を見殺しにした船長が禁固3ヶ月

 日本の世論は「不平等条約の改正」特に「領事裁判権の撤廃」を求めるようになります。

領事裁判権の撤廃

 陸奥宗光イギリスとの条約改正に挑みます。

 大国のイギリスが領事裁判権の撤廃をすれば、他国も改正に応じると考えていました。

 当時、イギリスは南下政策などで領土を拡大するロシアを警戒していました。

 日本と手を組むことでロシアの影響力を弱まらせようと考えていました。

 利害が一致した日本とイギリスは

 1894年 日英通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功します。

③ 小村寿太郎~関税自主権の回復~

 3人目が小村寿太郎

(小村寿太郎 出典:Wikipedia

 残る不平等条約は関税自主権の回復のみ。

関税自主権

 自分の国に輸出入される商品に関税を独自に定める権利

 関税自主権がない日本は、安い外国製品が日本に入ってくるため、日本の産業を守ることができません。

日露戦争に勝利

 1904~05年の日露戦争でロシアに勝利します。

 列強(一等国)の仲間入りを果たします。

 列強(一等国)に対して、不平等条約を結んだままなのはおかしい!

 日露戦争に勝った勢いそのままに、小村寿太郎関税自主権の回復に成功させます。

用語確認 一問一答

 ① 井上馨が行った鹿鳴館で舞踏会を開く政策

 ② イギリス人船長の罪が軽かったことで領事裁判権の撤廃に向けて世論が動いた事件

 ③ 領事裁判権の撤廃に成功した外務大臣

 ④ 関税自主権の回復に成功した外務大臣

用語確認 一問一答 ~答え~

 ① 欧化政策
 ② ノルマントン号事件
 ③ 陸奥宗光
 ④ 小村寿太郎

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