征韓論で西郷隆盛が辞めた後、大久保利通が政治の中心にいます。
一方、政府を去った板垣退助、西郷隆盛は何をしたのか。
自由民権運動、民撰議院設立の建白書、西南戦争、国会開設についてわかりやすく、解説していきます。
キーワード
・民撰議院設立の建白書
・自由民権運動
・西南戦争
・国会期成同盟
・国会開設の勅諭
・板垣退助の自由党
・大隈重信の立憲改進党
自由民権運動~国民の政治参加を目指して~
藩閥政府への不満
明治時代がスタートした当初の政府。
議員と大臣の出身地は公家1人、薩摩3人、長州3人、土佐2人、肥前4人、幕臣(江戸幕府出身)1人でした。
討幕を主導した薩摩、長州を中心に政治を行う「藩閥政府」でした。
これに対して、国民の不満が高まっていました。
藩閥政府の批判を行った人物の一人が「板垣退助」です。
板垣退助は政府の中心人物でした。しかし、征韓論で政府、特に大久保利通と意見が合わず辞めていました。
民撰議院設立の建白書
板垣退助は、「大久保は自分勝手な政治をしている!」「議会を開いて国民の意見をきけ!」と議会を開くことを要求しました。
「民撰議院設立の建白書」という文章を提出しました。
民衆の政治参加を求める運動に発展していきます。
これを「自由民権運動」といいます。
明撰議院設立の建白書は、もちろん、政府は無視。相手にしませんでした。
板垣退助は高知に戻り立志社を結成し、自由民権運動を進めていきます。
西南戦争~西郷隆盛の最期~
征韓論で政府を辞めたもう一人の西郷隆盛。
鹿児島で悠々自適な生活を送りたいと考えていました。
しかし、自由民権運動とともに士族(元武士)の反乱が起きていました。
鹿児島の士族たちは西郷隆盛に共に立ち上がろうと説得をします。
そして、西郷隆盛を中心にとした士族の反乱が鹿児島を中心に起こりました。
「西南戦争」です。
結果は、政府軍が圧勝しました。
西郷隆盛は戦の神様と言われるほど、戦争が上手い人物です。
「戦の天才が負けた」
武力で政府に逆らことは難しい。
西南戦争の後は、政府への批判は
武力によるものから言論によるもの
が中心になりましたを中心として、
西郷隆盛が死んで1年後
大久保利通は暗殺されました。
暗殺者から「大久保らの自分勝手な政治をして、国民をおさえつけて国のお金を無駄に使った」と言われました。
国を良くしようと行動をした大久保利通の最期でした。
国会期成同盟~仲間を集めよう~
板垣退助は、議会を開こうとしない政府に対して、不満をつのらせていました。
板垣退助は多くの仲間を集めることにします。
1880年、大阪で代表者が集まり、国会を開くことを目指す団体をつくりました。
「国会期成同盟」です。
国会開設の勅諭~10年以内に国会を開く~
政府内で、賄賂の問題が発生。
黒田清隆が北海道の施設や財産を仲間に格安で売ろうとしていたことが発覚しました。
自由民権運動をしていた人々から激しい批判にさらされます。
伊藤博文は国会開設を求める大隈重信を政府から追い出します。
しかし、自由民権運動の声は政府を動かします。
これ以上自由民権運動の声は無視できない。伊藤博文は10年以内に国会を開くことを約束しました。
「国会開設の勅諭」です。
政党の結成
国会開設に向けて同じ考えの人々で作る政治団体の政党の結成が行われました。
板垣退助は「自由党」を結成
大隈重信は「立憲改進党」を結成
自由民権運動は政府の弾圧や過激になりすぎて暴徒が出てしまったため、段々と下火になっていきます。
用語確認 一問一答
① 板垣退助が政府に提出した議会の開設を主張した文章
② 国民が政治に参加することを目指す運動
③ 西郷隆盛を中心に士族が起こした反乱
④ 1880年に大阪で結成した国会の開設を求める団体
⑤ 板垣退助が結成した政党
⑥ 大隈重信が結成した政党
用語確認 一問一答 ~答え~
① 民撰議院設立の建白書
② 自由民権運動
③ 西南戦争
④ 国会期成同盟
⑤ 自由党
⑥ 立憲改進党