皆さん、こんにちは!「社会人先生」です。今日も楽しく歴史を学んでいきましょう。
第一次世界大戦が終わった後の世界。アメリカのウィルソン大統領が唱えた「民族自決(みんぞくじけつ)」(自分たちの国のことは自分たちで決めよう!)という言葉に、世界中の植民地の人々は希望を持ちました。
「これで俺たちも支配から解放されるんだ!」
中国の人々もそう期待に胸を膨らませていました。しかし、待っていたのは「裏切り」と「絶望」だったのです。 その怒りが大爆発したのが、中国史上最大の学生運動「五・四運動(ごしうんどう)」です。
なぜ中国は怒ったのか? そこには、日本が突きつけた「ある要求」が深く関わっていました。 今回は、日中関係の大きなターニングポイントとなったこの事件を、ドロドロした裏側まで含めて世界一わかりやすく解説します!
第一次世界大戦後の中国と日本
1. 火種はここから!日本が突きつけた「二十一カ条の要求」
話は第一次世界大戦中にさかのぼります。 ヨーロッパの国々が戦争で忙しい隙を狙って、日本は中国(当時の中華民国政府)に対して、とんでもない要求を突きつけました。それが1915年の「二十一カ条の要求」です。
★ どんな内容だったの?(ざっくり解説)
内容は多岐にわたりますが、特に重要なのはこの辺りです。
- 山東省(さんとうしょう)のドイツの権利を日本によこせ! (ドイツが持っていた土地や鉄道の権利を、日本が引き継ぐという内容)
- 南満州(みなみまんしゅう)での日本の権利を延長しろ! (旅順・大連の租借期限や、南満州鉄道の権利を99年間延長すること)
- 中国政府に日本人の顧問(アドバイザー)を雇え! (中国の政治や軍事に日本が口出しできるようにすること ※これはさすがに中国が拒否)
要するに、「中国の中にあるドイツの縄張りを日本がもらうし、満州での日本の縄張りも強化するからよろしく!」という、日本にめちゃくちゃ都合の良い内容でした。
★ 中国の「手のひら返し」? 袁世凱の誤算
当時の中国のトップ、袁世凱(えんせいがい)は、最初この要求の大部分を認めようとしていました。なぜなら、日本の力を借りて自分の独裁的な地位を固めたかったからです。
しかし、この要求の内容が世間にバレると、中国国民は激怒! 「袁世凱は売国奴だ!」「日本は侵略者だ!」と批判の嵐が巻き起こりました。
慌てた袁世凱は、欧米諸国(特にアメリカ)にこの内容をわざと大げさにリーク(暴露)して、国際社会から日本を批判してもらおうと画策します。 最初は「飲む」と言っておきながら、国内の反発を見て態度を変え、国際社会を巻き込んで日本を牽制しようとした……まさに「手のひら返し」の政治ショーが繰り広げられたのです。
結局、日本は最後通牒(これを受け入れなければ武力行使も辞さないという脅し)までちらつかせ、中国政府に要求の大部分を認めさせました。中国の人々にとって、これは「国恥(国の恥)」として心に深く刻まれました。

2. 期待は裏切られた!絶望のパリ講和会議とベルサイユ条約
そして第一次世界大戦が終わり、1919年にパリ講和会議が開かれました。
中国は戦勝国側として参加し、大きな期待を抱いていました。
「ウィルソン大統領の『民族自決』だ! 不平等な『二十一カ条の要求』は取り消されて、山東省の権利も中国に返ってくるはずだ!」
しかし、現実は残酷でした。
会議の実権を握っていたのは、イギリス、フランス、アメリカといった列強国。彼らは日本との事前の約束や、自国の利益を優先しました。
結果、結ばれたベルサイユ条約で決定したのは…
中国の訴えは完全に無視されました。日本は戦勝国として、ドイツが持っていた中国での利権を正式にゲットしたのです。
中国の人々の期待は、怒りと絶望に変わりました。
3. 中国全土が怒った!伝説の「五・四運動」勃発
「もう我慢できない! 列強も、言いなりになっている自分たちの政府も許せない!」
ベルサイユ条約の内容が伝わった1919年5月4日。北京の学生たちが天安門広場に集まり、大規模なデモ行進を始めました。これが「五・四運動(ごしうんどう)」です。
★ スローガンは「外争国権、内除国賊」!
- 外争国権(がいそうこっけん): 外国(特に日本)と戦って、国の権利を取り戻せ! ベルサイユ条約調印反対!
- 内除国賊(ないじょこくぞく): 国内にいる売国奴(日本に媚びを売る政治家たち)を排除しろ!
★ 運動の広がりと「日貨排斥」
学生から始まった運動は、やがて商人、労働者へと広がり、中国全土を巻き込む巨大な国民運動になりました。 特に激しかったのが、「日貨排斥(にっかはいせき)」、つまり日本製品の不買運動です。「日本の商品は買うな! 売るな!」という運動が広がり、日本の経済にも大きなダメージを与えました。
この圧力に負けて、中国政府はベルサイユ条約への調印を拒否せざるを得なくなりました。民衆の力が政府を動かした瞬間でした。

4. 新しい中国へ!孫文と国共合作
五・四運動の盛り上がりを見て、「革命の父」と呼ばれる孫文(そんぶん)は確信しました。 「中国を変えるには、民衆の力が必要だ!」
孫文は、それまでの秘密結社的な組織を改組して中国国民党(ちゅうごくこくみんとう)を結成。 さらに、ロシア革命の影響を受けて生まれたばかりの中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)とも手を組むことを決意します(第一次国共合作)。
「国民党」と「共産党」。考え方は違いますが、「帝国主義(日本や欧米列強)と、国内で暴れている軍閥(地方のボスたち)を倒して、中国を統一する!」という共通の敵のために協力体制を作ったのです。
こうして中国は、民衆のエネルギーを背景に、新しい国づくりへと大きく動き出していきました。

5. 基礎用語の確認!一問一答(テストに出るよ!)
【問1】 1915年、日本が中国(袁世凱政府)につきつけた、山東省のドイツ権益の継承などを求めた要求は何ですか?
【問2】 第一次世界大戦の講和会議で、中国の主張が退けられたことに抗議して、1919年5月4日に北京で始まった運動は何ですか?
【問3】 五・四運動の中でスローガンとされた「内除国賊」の「国賊」とは、具体的にどのような人たちを指しますか?
【問4】 五・四運動をきっかけに孫文が結成した政党は何ですか?
【問5】 中国を統一するために、中国国民党と中国共産党が協力体制をとったことを何といいますか?
6. 一問一答・答え
【問1】 二十一カ条の要求
【問2】 五・四運動
【問3】 日本の要求を受け入れようとした(親日派の)軍閥や政治家(売国奴)
【問4】 中国国民党
【問5】 (第一次)国共合作
7. 入試・定期テストに出やすい記述問題と答え
【問題①】 五・四運動が起こった直接のきっかけを、「パリ講和会議」「山東省」という言葉を使って説明しなさい。
【問題②】 日本の「二十一カ条の要求」に対して、当時の中国政府(袁世凱)が当初とった態度と、その後の対応の変化について簡潔に説明しなさい。
8. まとめ







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