水野忠邦が行った政治改革
天保の改革
天保の改革は徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革を見本とした
天保の改革は失敗に終わる
天保の改革とは
天保の改革が失敗した理由は
わかりやすく、簡単に解説していきます
キーワード
・水野忠邦
・天保の改革
天保の改革
① 水野忠邦
江戸幕府第12代将軍徳川家斉の時に老中となった人物
水野忠邦です。
老中とは江戸幕府の政治を中心となって動かす役職です。
水野忠邦は幕府の権力を復活させるために改革を行います。
「天保の改革」です。
水野忠邦が行った政治改革
② 倹約令
倹約令を出し、武士に質素・倹約を求めました。
さらに、町人に対しても倹約を命じます。
町人の派手な服装を取り締まりました。
江戸の芝居小屋を郊外へ移転させました。
庶民の娯楽だった寄席の閉鎖などを行いました。
また、小説も取り締まりの対象となりました。
庶民が楽しみに読んでいた小説は世を乱すという理由で出版停止になります。
また政治を批判する小説も禁止しました。
③ 株仲間の解散
江戸の町は物価が上昇していました。
水野忠邦は物価の上昇の原因は何か考えます。
同業者で営業を独占できる組織の「株仲間」が原因と考えます。
「独占できる」と「価格が高くても売れる」から「儲かる」
営業を独占する株仲間が原因で物価が高くなっている。分かる話です。
水野忠邦は「株仲間を解散」させます。
結果、株仲間同士で物のやり取りを行っていたため、やりとりが減少。
さらに、物のやり取りが妨げられた影響で、逆に物価が上昇してしまいました。
物価上昇の原因の1つに株仲間がありましたが、
それ以上に、水野忠邦が行った貨幣の質を落とした小判の流通が物価の上昇の原因です。
株仲間の解散は失敗に終わります。
④ 江戸に出稼ぎに来ている者を故郷に帰す
江戸に出稼ぎに来ている者を故郷に帰します。
これを「人返し令」といいます。
農村に帰すことで、農業をする人を増やして、年貢を多くすることを目指します。
しかし、農村での生活が厳しいために江戸に出稼ぎに来ていました。
それを「故郷に帰れ!」とします。
当たり前ですが、故郷に帰っても仕事はありません。
反発されるのは目に見えています。
これを失敗に終わります。
⑤ 江戸や大坂の周辺を幕領にしようとした
江戸や大阪の周辺を幕府の領地(幕領)にしようとしました。
これを「上知令」といいます。
幕府の権限を強化することになります。
また、江戸や大阪の周辺を江戸幕府の領地にすることで年貢の収入が増えます。
これも当たり前のことですが、
急に「ここを江戸幕府の領地にします!」
と言われて納得できる大名はいません。
大名や旗本が反対したため、実施されることはありませんでした。
これも失敗に終わります。
天保の改革の結果
天保の改革は約2年間で終了しました。
改革の失敗は幕府の権力が衰えたことを証明します。
江戸幕府の前半や徳川吉宗の時代は幕府の独断で行える政治でした。
「人返しの令」や「上知令」の失敗に見えるように農民や大名の反対を振り切れませんでした。
また、「お米を集める」時代ではなく「お金を集める」時代にかわっていました。
貨幣経済が農村でも導入されたため、水野忠邦のお米を集める政策は失敗に終わります。
まとめ
用語確認 一問一答
① 第12代将軍徳川家斉の時の老中
② 水野忠邦が行った政治改革
③ 物価の上昇の原因とされ解散された営業を独占できる組織
用語確認 一問一答 ~答え~
① 水野忠邦
② 天保の改革
③ 株仲間