「日清修好条規」「日清修好条規」「征韓論」「樺太・千島交換条約」わかりやすく、解説

歴史
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 江戸時代の鎖国とは違い、明治時代に周辺国との交流が行われました。

 今回はアジアとの関わりです。

 清との日清修好条規をわかりやすく

 朝鮮との征韓論日朝修好条規をわかりやすく

 ロシアとの樺太・千島交換条約をわかりやすく

 それぞれわかりやすく、解説していきます。

 キーワード

・日清修好条規

・日朝修好条規

・征韓論

・樺太・千島交換条約

清との関係

 清とは江戸時代にも交流がありました。

 長崎の唐人屋敷で貿易を行っていました。

日清修好条規

 明治政府は1871年に清と条約を結びます。

 「日清修好条規」です。

 日本と清とは対等な内容の条約です。

  内容は主に
 ① 日本と清とは互いに領土を侵さない
 ② 開港地に役人を置く
 ③ お互いに領事裁判権を認める

朝鮮国との関係

 明治政府は朝鮮国との国交を結ぼうとしました。
 しかし、交渉を進めても上手くいきませんでした。
 そこで、先に清と「日清修好条規」を結び、朝鮮と交渉をしようと考えました。
 しかし、朝鮮国はかたくなに日本とは国交を結びませんでした。

征韓論

 日本国内では、「征韓論」と呼ばれる武力で朝鮮に開国をせまる主張が出てきました。
 征韓論を主張したのは西郷隆盛板垣退助です。
 征韓論の内容だけ見れば、恐ろしいです。しかし、西郷隆盛は自分が使節として派遣された時に朝鮮国が西郷を殺すなどの暴挙に出た場合は戦争になると考えていました。
 戦争になることで士族(元武士)の不満を海外にそらそうと考えていました。
 国内政治をずっと行ってきた西郷隆盛は士族の不満を身をもって感じていたのです。

 西郷隆盛の朝鮮国への派遣は決まっていました。
 しかし、大久保利通らのストップで派遣は中止になりました。
 大久保利通は、岩倉使節団で欧米を視察していました。欧米の進んだ政治、経済、社会を見て、朝鮮国よりも日本の発展が先だと考えていました。

 派遣は中止。
 西郷隆盛、板垣退助は政府を去ります。
 これを「明治六年の政変」といいます。

 西郷隆盛は国内の士族(元武士)のことを考え
 大久保利通は国内の産業のことを考えた。

 2人とも「日本のことを考えた」結果、意見がすれ違ってしまいました。

江華島事件

 西郷隆盛、板垣退助が政府を去った後、朝鮮国と交渉を続けます。

 しかし、朝鮮国はかたくなに国交を結びません。

 そこで、軍艦を朝鮮に派遣し、江華島付近をうろうろ。
 沿岸を無断で測量し始めました。
 すると朝鮮国から大砲が日本の軍艦に撃ち込まれます。
 「江華島事件」です。

 これをきっかけに日本は力で朝鮮国の開国させます。

 西郷隆盛がいなくなった後に、まさかの「征韓論」の実施です。
 政府を辞めた西郷隆盛が不憫でなりません。

日清修好条規

 日本と朝鮮国は「日朝修好条規」を結びます。

 内容は主に、
 ① 互いに平等な権利を持つ
 ② 日本の領事裁判兼を認める
 ③ 朝鮮国は無関税で貿易を行う

 朝鮮国にとって「不平等条約」です。

ロシアとの関係

日露通好条約

 江戸時代にロシアと条約を結んでいます。

 1854年「日露通好条約」です。

 択捉島とウルップ島との間に国境を決めました。

樺太・千島交換条約

 ロシアとの間では樺太の領有権が不明確でした。

 そこで、明治時代に入り、ロシアと条約を結びます。

 1875年「樺太・千島交換条約」です。

 日本は千島列島を日本領とする。
 一方、ロシアに樺太の領有を認めました。

用語確認 一問一答

① 1871年 清と結んだ対等な条約 

② 武力で朝鮮国を開国させる主張

③ 征韓論を主張した人物を2人

④ 1876年 朝鮮国と結んだ、朝鮮国にとって不平等な条約

⑤ 1875年 ロシアと結んだ条約

用語確認 一問一答 ~答え~

① 日清修好条規
② 征韓論
③ 西郷隆盛 板垣退助
④ 日朝修好条規
⑤ 樺太・千島交換条約

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